
時間もお金も揃う未来に、健康だけがなかったら。50代が考える健康投資の本質
この記事でわかること 子育てが一段落し、時間とお金が戻ってくる未来のこと その未来を楽しめる身体があるかどうか、という問い 私が健康に投資し続けている、たった一つの理由 子どもたちが、自分の世界を持ち始めた 5人の子どもたちが、それぞれの人生を歩み始めている。 以前なら、家にいれば必ず誰かが話しかけてきた。今は違う。父親と話すより、自分たちの予定や仲間との時間を優先するようになった。 それを寂しいとは思わない。頼もしいと思う。子どもが親から離れていくのは、うまくいっている証拠だ。 ただ、ある日ふと気づいた。子どもたちに費やしていた時間が、少しずつ自分に戻ってきている、と。 時間とお金が戻ってくる未来は、遠くない 今はまだ学費がかかる時期だ。5人分となれば、家計に占める比重は決して小さくない。 けれど、それもあと5年ほどで終わる。全員が社会人になれば、これまで子育てに向けていた時間もお金も、別次元で自分のものになる。 その未来は、決して遠くない。50歳を過ぎて、はっきりとそう感じるようになった。 チームリーダーとして働く日々の中では、目の前の仕事に追われて先のことを考える余裕はあまりない。それでも、子どもたちの変化を見ていると、時間の流れを実感せずにはいられない。ついこの間まで抱っこしていたはずの子が、自分の判断で予定を決め、自分の足で出かけていく。 そして同時に、一つの問いが浮かんできた。 その未来を、楽しめる身体があるだろうか 時間がある。お金もある。それだけでは、足りないのではないか。 その状態で、もし身体が動かなかったらどうだろう。 膝が痛くて長く歩けない。手が震えて箸をうまく持てない。誰かの助けなしには外出できない——そんな状態で迎える「自由な時間」は、本当に自由と呼べるだろうか。 行きたい場所があっても行けない。会いたい人がいても会いに行けない。お金があっても、それを使う場所まで自分の足で辿り着けない。 時間とお金が揃う未来に、健康だけがなかったとしたら。それは私にとって、不幸だと思う。 80歳でも、90歳でも、自立していたい だから私の目標は、はっきりしている。 80歳になっても、90歳になっても、自分の足で歩き、自分のことは自分でできる状態でいること。他人に頼る部分を、できる限り小さくしていくこと。 これは「長生きしたい」という願望とは、少し違う。寿命の長さそのものに、それほど強い執着はない。 そうではなく、生きている間は、自分の力で生きていたいということだ。何歳まで生きるかより、生きている時間をどういう状態で過ごすか。私が気にしているのは、そちらのほうだ。 誰かの手を借りることが悪いとは思わない。助けが必要な場面は誰にでも訪れるし、そのための仕組みが社会にあることには感謝している。ただ、自分で選べる範囲は、できるだけ自分で選びたい。今日どこへ行くか、何を食べるか、誰と会うか——そういう当たり前の選択を、最後まで手放したくないだけだ。 幸せの定義は、人それぞれでいい もちろん、何を幸せと感じるかは人によって違う。 広い家に住むことが幸せな人もいる。世界中を旅することが幸せな人もいる。家族と過ごす時間、仕事での達成、趣味に没頭する時間——どれも立派な幸せの形だ。正解は一つではないし、誰かの答えが誰かにとっての答えになるとも限らない。 そのうえで、私にとっての幸せは何かと問われれば、こう答える。 高齢になっても、自立した生活ができていること。 それが私の答えだと、50歳になった今、迷いなく言えるようになった。 だから、健康に投資し続ける 筋トレを続けているのは、このためだ。サプリメントを飲んでいるのも、食事を見直したのも、すべて同じ一点につながっている。 未来の自分が、自立していられるかどうか。 健康投資について最初に書いた記事でも触れたが、お金の準備は誰もが考える。けれど、そのお金を使いこなす身体の準備を、同じくらい真剣にしている人は多くない気がする。 なぜ続けられるのかを言語化した記事では、朝の時間が自分だけのものだからだと書いた。食事を見直した話も、根っこにあるのは同じ問いだ。 健康への投資に、やりすぎということはないと思っている。ただし、無理なく、長く、続けられることが前提だ。一時的に頑張って途中でやめてしまうなら、それは投資にならない。 今日も、ジムへ向かう 子どもたちが自立したとき、私も自立していたい。 彼らの人生の邪魔をしないために。そして、自分の人生を最後まで自分で生きるために。 今日も、ジムへ向かう。








